化粧下地

パズル、カプレーゼ、ラフマニノフ

sotto voce・三月

2020-03・日記

 

 帰宅して気がついた、私からほんの少し死の匂いがしている。しかし私のものではない。背中と肩にべったりと何かが張り付いている。

 死の匂いは死臭とは区別できると考えています。本当はこう呼びたくないが、死臭はものの腐った匂いと言い表すことでコンセンサスが得られる。亡くなる少し前からはじまり、亡くなってそのまま誰かが何かをしなければ濃くなっていく。14時頃、荼毘に付したという電話があった。10分ほど休んで作業に戻った。途中で思考をやめるのは乱暴で難しいけれど、少し息がしやすくなる。

 

 二月上旬。亡くなった人から手紙が届いた。病室を訪ねる時は必ず斎藤茂吉の「白桃」を朗読します。まだ元気だった日に頼まれたからです。跳躍力のある歌や、美しい季節やみずみずしい果物を思わせる歌はすこぶる好評でした。甘党だったからかもしれない。好きなものを好きなように食べられるのは、非常に贅沢で感動的な時間だ。食べられない固形物の代わりに、ゆっくり31文字を咀嚼していたように思う。その食事は舌のみならず心をもって肉薄しゆく過程。音はいかように対象の心理的イメージを呼び起こすのだろうか。

 果物が感情の光を帯びて表象が立ちあがる。過去に確かにあった感情が、ある時になにかと結びついて保存される。ここに果物が代入された。哀愁、喜悦、陶酔、悲嘆、憐憫、統合……語の範疇化機能では説明がつかない。言葉にイメージを持つというのは不思議だ、音や意味に依存しない方法で。慣用はもっと不思議だと思う。

 

 二月。水は私達に似ている。色々な形をとる。お皿が割れれば床に薄く広がる。いつも思うのだけれど、海に返したコップ一杯の水が薄く広がって遠くの国の岸辺まで届いてくれたらいいのに。海が平らなお皿の積み重ねなら、波の音もグラデーションも全部明るい響きに変わるだろう。実際の海はもっと深刻な顔をする時がある。

 

 十二月。「からだにしっかり熟れた桃がある」取り除いて楽にしてほしいと言っているのを聞いた。終末期の苦痛は果物のように熟れていき、勿論飲み下すことはできないので、自重に耐えられなくなってぷちんと枝から落ちる、落ちたものがいくつも足元に転がっている。その後はどうなるのだろう。

 

 三月。死の匂いという言葉は人をたくみに刺激し様々なものを想起させる。実際こうたずねると、まず土や樹木、埃や水などが出てくるように感じる。そしてうまくいけば独自の連想がつらなり、土が靴の裏にくっついて玄関まで運ばれた腐植土に、埃が西日のさす部屋で焚いていたお線香にまで届くことがある。人はご遺体の匂いと死そのものの匂いを知覚できる。そして死の匂いは個人的体験として意味を持ちやすい。記憶と嗅覚の連合強度はプルースト効果において有名で、この連合については嗅覚の知覚過程の特徴によって理解できる。匂いの電気信号は、情動や記憶において重要な内嗅覚皮質や扁桃体、海馬に送られ、他の感覚のようには視床を通らない。リスクヘッジにしては妙な場所で処理するのだけれど、脳は有能な神様が設計したものではなく適応的で案外ごちゃついていて、とにかくめちゃくちゃ難しいので脳について判断するのは私にはできない。愚鈍って本当に最悪。匂いでぐちゃぐちゃになってしまうのはコラム構造がないから?

 

 二月下旬。思い込みはいつ生まれるのだろうか。月面は寒い気がするし、死は夜のような気がする。思い込みは表に出すまで存在を知ることができないから厄介だ。時々はうつくしい幻想をみせるけれど。

 

 あの人が泣いてしまった金木犀も潮風も真に共有することなんかできないんだよ 体臭を除いて感じることはできない 体臭を除くことに成功しても、金木犀のある空間に充満した土地特有の匂いを無視できない その先にはクオリア問題が待っている そしてこれは共鳴においては真に全く同じである必要がないということを示す たとえば夏目漱石の「夢十夜」に出てくる月も、「あの素晴らしい愛をもう一度」の花も、あらゆるアーティストの歌う東京も、みんなが違う距離にある一つを見つめていることの不思議に私は感じ入る。

 たった一回でも共有してしまえばその後の人生で繰り返し共鳴してしまう。

 

 二月。みずみずしいものの匂いを好きになるのは、粘膜に溶けた水溶性の化学物質を受容器で取り込むから。葡萄や檸檬がどのような電気信号に変換されるのか知りたい。電気信号ときくとシナプスを第一に想起する。葡萄の匂いがシナプスでそうであるようにイオン化したりしていなかったりするのを思うと、少しおかしい。じゃあ、私がさっき食べた匂いの全然しない物は何。匂いのしない食べ物は味気ない。だんだん眠くなってきた。

 

 三月。他人の死について誰かに話さなくちゃいけないことなんてなかったはずが、twitter下書きや手帳の走り書きを集めるうちに結構な量になった。最後は匂いに関する短歌を引用する。

熱を出すときはいつでも嗅覚が鋭くなるの其処にいるのね 紫水皐月

満ち欠けの描かれているカレンダー親しくなりし夜の庭の香 滝川節子

あなたから香る桜をいつまでも忘れずに済む脳を下さい 千種創一

昼の月みずみずしくてうすく剥く 梨の匂いが好きだと知って 中家菜津子

水仙の香りがすいと立ち上がる例えばそんな人だあなたは 矢部雅之

五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする 古今集よみ人しらず